風に乗って、歌声が聞こえる。
時折笑いながら、楽しそうにわらべ歌を歌う二つの声。その方向へと、彼は歩いていた。
「ひとーっつついてはちーちのーためー、ふたーっつついてははーはのーためー。」
どうやら、有名な歌の替え歌らしい。「積んでは」が「ついては」になっている。
歌にあわせてテンテンという音。多分、鞠をついているのだろう。草木をかき分け細い道を歩きながら、鞠つきをして笑っている二人を目の中に浮かべる。
「みーっつついてはきょーだいのー・・・・・・・・あっ!」
不意に、音と歌声が途切れる。何事かと思った時、自分の足に何かがぶつかった。
見下ろすと、そこにはトノサマンの絵の描かれたボール。どうやら茂みをくぐって転がってきたらしい。
「ああっ!すみません、わたくし・・・・!」
「ありゃりゃ、茂み入っちゃったね。いいよいいよ、あたしとってくるね。」
その声と共に、足音が近付いてくる。そっと彼はそのボールを拾い上げ、手に持ったまま目の前の茂みを突っ切った。
ガサッ!という音と、
「あ!」
という声が重なる。
視界に飛び込んできたのは、彼女達の遊び場であるらしい広場。そして、少女と、もう少女とは呼べない年頃の女性。
ひどく懐かしい、数年ぶりに再会した若き綾里家の家元とその従姉妹は、パッと顔を輝かせ、
「「みつるぎ検事!!」」
彼の名を、呼んだ。
「どうぞ。」
「ああ。・・・・すまないな、急に訪ねて。」
礼と謝罪を同時に言って、御剣は出された湯飲みを手に取った。
傍らでは記憶よりずいぶん背が伸びた春美が饅頭を用意している。「お構いなく」と声を掛けてから、自分に向かい合って座った真宵に向き直った。
まっすぐ背を伸ばして正座して自分を見ている彼女からは、もう初めて会った頃の幼さは感じられない。
「すいません、お客さんは本当は控えの間へお通しすることになっているんですけど、今日そっちは使ってて・・・・。」
「いや、構わない。こちらこそ、わざわざすまないな。この部屋は使っても大丈夫なのだろうか?」
「はい!今日の修行はもう終わったので!」
ということは、ここはいつも修行に使われる部屋なのか。なんとなく敷かれた座布団の下に居心地の悪いものを感じる御剣。
「それにしても、どうやってここまで?みつるぎ検事ここに来るのは初めてですよね。あ、イトノコさんに聞いたとか?」
「いや、彼は既に行き方を忘れていた。自力で調べたのだよ。」
「それで、今日は一体どうしてここへ?」
「・・・・たまたま近くに用があってな。ついでなので、寄って行こうと思っただけだ。」
「・・・・そうですか。」
笑顔の真宵。きっと聡明な彼女にはもう分かっているのだろう。この近くには用事が出来るような重要な場所などないことも。
自分の来た理由が、彼女たちのためだという事も。
「あの、あの、そもそもみつるぎ検事さんは、いつ頃こちらの国に帰ってこられたのですか?」
「ム・・・・昨日だ。」
「ええええっ!じゃ、じゃ、帰って来てすぐここに来てくれたんですか!」
春美の問いへの答えに、真宵が心底ビックリして言う。こういうときの反応は昔となんら変わらず、微笑ましい気持ちになる。
「一応、検事局と警察局への挨拶は済ませてきた。本来ならもっと早く来るべきだったと思うのだが。」
「もっと・・・・・って、これ以上早くって、いつ来るつもりだったんですか。」
「成歩堂が。」
その名を口に出した瞬間、空気が変わるのを感じた。
元々静かだった部屋野中に、さらに沈黙が重くのしかかってくる。
真宵も春美も、沈痛な表情で俯く。気が引けたが、それでも御剣は言葉を続けた。
「成歩堂が、弁護士を辞めた時に・・・・・・一度、帰国すべきだった。」
「・・・・みつるぎ、検事・・・・。」
「・・・・・・・・・・すまない。」
俯く。彼女達の顔を見ることが出来ない。
「・・・・あれから、どれだけ経っただろうか・・・・。」
「3年・・・・ですね。あたし、今23歳だから。3年半、経ってます。」
「うム、私もそろそろ30になる。」
「うわぁ、そんなになるんですね。はみちゃんも、もう中学生なんですよ?」
「ほう、道理で・・・・。しかし、早いものだな、3年とは・・・・・。」
3年前、御剣は一度この国に帰ってきた。そして3月に、再び海外へと旅立った。全ては、真実を追い求める理想の法廷のあり方を知るために。
だが、それから1ヶ月も経たないうちに、信じられないことが怒った。
『成歩堂龍一、証拠品捏造疑惑により弁護士資格を剥奪。』
訳が分からなかった。初めてその報道を聞いた時、御剣は自らの耳を疑った。
彼がそんなことをするはずがない。
よりによって、彼が。
しかし、捏造云々はともかく、少なくとも弁護士資格の剥奪は真実だった。成歩堂龍一は厳罰処分とされ、その名は弁護士教会から除名された。
「あの時、私はすぐに成歩堂に連絡を取った。ヤツに、真相を問いただそうとしたのだ。」
「・・・・・・どう、でした?」
「・・・・・・・・『ごめん』だとさ。それしか、言わなかった。」
正確に言えば、それだけ言って一方的に切られたのである。
「否定もなく、肯定もなかった。切り離されたように感じた。昔私が成歩堂にしたように、成歩堂も私を拒絶したのだと。
しかし・・・・まさか、君たちまで・・・・。」
「・・・・あたしたち、あの裁判に一緒にいなかったんです。ちょうど、里に帰っていて。」
俯いたまま、真宵が言う。
「あたしたちには、なるほどくんの方から電話が来ました。・・・・・・あの裁判の次の日に、弁護士を辞めた、とだけ。」
「・・・・・・そうか。」
「そ、そんな顔しないで下さい!みつるぎ検事は悪くないんですから!」
「そうです!検事さまは悪くありません!悪いのは、なるほどくんです!」
「・・・・はみちゃん・・・・。」
真宵の後ろに座った春美は、必死の様子でそう叫んだ。
「真宵さまがこんなに心配されておられるのに、お手紙しか送ってこないなんて!真宵様がどれほど・・・・!」
「ま、待ってくれ!手紙、だと?」
慌てて春美の言葉をさえぎり、御剣は問う。春美は興奮した様子で「ええ!」と答えた。白い手を握り締めてぶんぶん振りながら、
「お電話も真宵様の声を聞いた途端に切ってしまいましたし、携帯にも出てくださらないし!もう、何度ひっぱたきに行こうと思ったことか!」
「そ、そうか・・・。しかし、手紙とは・・・。」
「・・・・直接行こうかとも思ったんですけど、面と向かって追い出されたり、事務所がなくなっていたりしたらって思ったら・・・・。それで、手紙を書いたんです。」
真宵が答える。口調こそ平静を保とうとしているが、正座した膝の上で両手を硬く握り締めている。心苦しいものを感じながら、御剣はさらに問いを重ねた。
「・・・・それで、返事が来たのか。」
「初めは、全然。でも、トノサマンのビデオと一緒に送るようにしたんです。」
「トノサマン?」
「はい。なるほどくん、弁護士の間もヒマだったんだから、今はもう退屈で死にそうになってるんじゃないかと思って。で、ただ送っただけだと見てくれないと思ったから、見た証拠としてレポートを書くのを義務付けたんです。〆切までに送ってこなかったら、問答無用で事務所に踏み込むぞって付け加えて。そうしたらちゃんと、お返事返してくれました。」
「なるほど、考えたものだな。」
「で、どうにか最近、レポートと一緒に最近のことだとか日常のこととか書いてくれるようになって。事件のこととかはまるで話してくれないけど、元気でいるとか、家計が苦しいとか、ピアノが嫌いだとか、そういう感じのことが毎回書かれているんですよ。えーっと、どこしまったっけ、はみちゃん。」
「はい!ひとまとめにして、衣装箱の中に入れてあります!」
「いや、別に取りに行かなくていい。また別の時でも結構だ。」
と、御剣は立ち上がりかけた真宵を手で制す。どうでもいいが、ピアノとは一体何のことだろう。
「それにしても、よかった。成歩堂が、君たちとの繋がりを完全に断ち切っていなくて。」
「はい、あたしも初めてお返事が返ってきたときには、そりゃあ嬉しかったです。・・・・・・・・でも、ほんの少しだけ・・・・ガッカリ、したかな。」
「・・・・?」
真宵は下を向く。次に彼女が発した声は、かすかに震えていた。
「・・・・だって、もし返事がなかったら・・・・そしたら、今度こそ事務所に行かなくちゃならなくなるから。
怖くても、辛くても、会いに行かなくちゃって、思えるから・・・・・・。」
「・・・・・真宵くん・・・・。」
会うのは怖い。でも会いたい。
そんな葛藤の中で、真宵が自身の背を押すために出した手紙は、『彼』に容易くかわされてしまったという事か。
成歩堂と直接会うことを躊躇っているのは、御剣も同じだった。自分自身、二度も彼の前から逃げ出した経験がある。そんな自分に、彼を追う資格などあるのだろうか。
帰国するまでは、帰ってきたらすぐにでも成歩堂の事務所に向かうつもりだった。けれど、結局はここへと来てしまった。理由は、恐らく彼女と同じ。
「・・・・あの。」
不意に、真宵が言った。泣くのを堪えるために食いしばっていた歯を開き、膝に落としていた視線をもう一度まっすぐ御剣に向ける。
「・・・・なるほどくん、まだ事務所にいるみたい、なんです。」
「なに・・・・?」
「あたし、手紙とビデオ、いつも事務所に送ってるんです。なるほどくんの自宅の住所知らないし。
で、毎回、ちゃんと届いてて・・・・返事も、そこから来てて、だから・・・・・・。」
言葉を連ねるうちに、彼女の目には涙が浮かぶ。
先ほどまで必死に耐えていた涙。しかし、その持つ意味はもう先ほどまでとは異なっていた。
「・・・・・・・・もう、法律事務所じゃないかもしれないけど・・・・でも、なるほどくん、ちゃんと守ってくれてるんです・・・・・・。
おねえちゃんと、なるほどくんがいた、あの場所を・・・・・・!」
そこから先は、もう言葉にはならなかった。
泣き出した真宵を見て慌てて立ち上がろうとした春美をそっと制し、御剣は真宵にハンカチを差し出した。シルク製の白い布を受け取った彼女は、かすれた声で「すみません」とだけ呟き、顔に布を当てる。
そうして泣いている姿は、昔とほとんど変わりない。そんなことを、御剣は思った。
5分ほどして。
「すみません、ほんと・・・・・・なんか、久しぶりで、つい。」
「いや、私こそ礼を言う。事務所のことは私も不安だったのだ。」
「そうですか・・・・。あの、あたし、顔洗ってきますね。」
そう言って真宵は立ち上がり、赤い目で小さく微笑み会釈した。
背を向け、その姿が扉の向こうに消えた時、
「・・・・・・ありがとうございます、検事さま。」
突然、目の前の少女がそう言い、頭を下げた。結い上げた髪が小さく揺れる。
綾里春美・・・・彼女とは御剣自身、あまり話したことがない。
最後に会った時、彼女はまだ9歳だった。その頃の姿とは、何もかもが一回り違って見える。
「別に、礼を言われるようなことはしていない。むしろ、真宵君を泣かせてしまった。」
「いいえ、だからこそです。検事さまのおかげで、真宵さまはやっと泣くことができました。」
「・・・・?」
姿勢を正し、春美は真剣な目つきで御剣を見つめた。そこにあの時の幼い少女の姿はなく、ただ真摯な瞳だけが伺える。
「真宵さまは、あの事件以来わたくしの前で泣いたことはございませんでした。
もしかしたら隠れて泣いておられたかもしれませんが、少なくとも真宵さまはわたくしの前ではいつも気丈に振舞っておられました。わたくしに心配をかけまいと、いつも笑っておられたのです。」
でも、と春美は身を乗り出す。小さかった拳を握り締め、懸命に言葉を紡ぐ。
「でも、わたくしは知っております。真宵さまは、ずっと泣きたかったのです。わたくしのせいで、真宵さまはずっと悲しいのを我慢しておられました。
わたくしなどのために、真宵さまは・・・・!」
「・・・・・・・・春美君。」
「・・・・わたくし、真宵さまの支えになりたいのです。
葉桜院のあの事件で、真宵さまがわたくしを支えてくださったように、わたくしも真宵さまのことを支えてさしあげたいのです。倒れないよう、潰れないよう、真宵さまを助けていたい・・・・!
・・・・それが、わたくしにできる、唯一の償いですから。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
俯く春美を見ながら、御剣は3年前の事件を思い出していた。
成歩堂が弁護士を辞める2ヶ月前、葉桜院という寺でとある悲劇が起こった。それによって多くの人が犠牲となり、残ったものも心に消えない傷を背負うことになった。春美も、その一人である。
この少女は今も、あの事件に責任を感じているのだろう。
「わたくしさえいなければ、おかあさまは悲しい夢を見ることもなかった。・・・・あの恐ろしい計画が実行されることもなければ、真宵さまが殺されそうになることもなかった。真宵さまのおかあさまも、ゴドーのおじさまも、あんなことにならずに済みました!
だからわたくし、真宵さまをお守りしたいのです。なるほどくんは、もういないから・・・・真宵さまのお傍には、もうわたくししかいないから。
・・・・なのに・・・・・・!わたくしときたら、真宵さまを泣かせてさしあげることもできないのです・・・・!」
恐らく、春美から罪の意識を消すことは不可能だろう。
どんな言葉を使っても、彼女のしたことは決して変えられない。春美はきっと、一生あの事件を忘れることはないだろう。
御剣にとっての、DL6号事件のように。
昔の御剣ならば、目の前の少女と過去の自分を重ね、なんと声をかけたらよいか分からなくなって口を閉ざしてしまっていただろう。
しかし、今は違う。
「春美君。そうではない。」
「・・・・・・?」
不思議そうに顔を上げた春美に、御剣は言葉を続けた。
「君がいるから真宵君は泣けない・・・・のではない。君がいるから、真宵君は笑えるのだよ。」
この少女が自らのことを許せないと言う気持ちは、御剣にも覚えがある。彼女にとってあの事件は、一生背負っていかなければならないものだ。
しかし、そこから先のことに関しては、彼女は自分を責める必要は全くない。
「君がいるからこそ、真宵君は強くあれる。決して倒れず、決して潰れず、立っていることができる。
もしも春美くん、君がいなかったなら、恐らく真宵君は今頃泣くことも笑うことも出来なくなっていただろ。
君のおかげで、今の真宵君がある。君が自分を責める必要はない。
君は立派に、真宵君のことを支えているのだから。」
そう締めくくってから、御剣はフ、と笑った。目の奥に見えるのは、古い友人の姿。
「・・・・・・全て、成歩堂の受け売りだがな。」
「なるほどくんの・・・・・・!」
一瞬見開いた春美の瞳に、じわり、と涙が浮かぶ。
ハンカチを取り出そうとして、先ほど真宵に渡したままだったと気付く御剣。どうしたものか、と思った時、
「はい、はみちゃん。」
ひょい、と春美の背後から、ちょうど戻ってきたらしい真宵がハンカチを差し出した。
洗って絞られたらしいその布を受け取る春美に笑顔をむけてから、真宵は御剣に向き直った。
「すみません、もう少し借りますね、ハンカチ。洗ってアイロンかけてから返しますから。」
「気にすることはない。それより、こちらこそすまない。春美君まで泣かせてしまった。」
「何言ってるんですか、こういうのは『泣かせた』って言いませんよ。あたしもはみちゃんも、元々ちょっと泣き虫だし。」
言いながら、春美に目を向ける真宵。春美は目にハンカチを押し当て、声も立てずに涙を拭い続けている。泣きたくとも泣けなかったのは、彼女も同じなのかもしれない。
真宵はしばらく春美の頭を撫でていたが、やがて視線を御剣に戻し、クスッと微笑んだ。
「それにしてもみつるぎ検事、ずいぶん優しい笑顔になりましたよね。」
「ム・・・・そうなのか?自分ではよくわからないのだが・・・・。」
「そりゃあもう、大変化ですよ。眉間のヒビも、心なしか浅くなったし。」
「・・・・シワ、と言ってはもらえないのだな。」
「ま、ま、こう言うのはほら、お約束ですから。とにかく、みつるぎ検事も変わりましたよね。いい方向に。」
「・・・・・・君のほうこそ。」
少しだけ、笑みがこぼれた。真宵が「?」と首を傾げる。
「変わったと言うより、成長したのだろうな。今の笑顔・・・・綾里弁護士にそっくりだ。」
「え・・・・!」
綾里千尋弁護士。彼女のことは今でも忘れられない。
一度しか、彼女と会ったことはなかった。それも、あの哀しい裁判で向かい合っただけ。それでも、彼女の真っ直ぐな瞳を今も鮮明に覚えている。
彼女は、もういない。けれど、彼女が残していったものは多い。
「・・・・・・あたし、おねえちゃんと似てるって言われたの、はじめてです。
ありがとうございます、みつるぎ検事!」
例えば、目の前のこの幸せそうな笑顔とか。
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