「ム・・・・そうだ。」

 今の会話で、ここに来たもう一つの理由を思い出し、御剣は腰を上げた。どうにか泣き止んだらしい春美が驚いて顔を上げる。

「どうか、いたしましたか?もしかしてもうお帰りに・・・・?」
「いや、そうではない。・・・・すまないが、この辺りにある花屋を教えてくれないだろうか。」
「お花屋さん、ですか?近くに一軒だけありますが、一体・・・・?」
「慌てて来たものでな。買って来る暇がなかったのだ。」

 ここに来た理由の一つは、無論真宵たちに会うこと。成歩堂のことで一番ショックを受けたであろう彼女らがどうしているか、心配だったのだ。
 そして、もう一つは・・・・。

「・・・・・・・・・・墓参りだ。綾里弁護士の、な。」

 御剣の言葉を聞いた瞬間、二人がパァッと笑顔になる。先刻御剣と外で出会った時と同じ、喜びに満ちた驚き。

「彼女とは一度しか会ったことはないが、いつかは行こうと思っていたのだ。生憎命日には一日遅れてしまったが・・・・構わないだろうか?」
「もちろんです!きっとお姉ちゃんも喜びますよ!」
「わたくしたちもお供いたしますね!倉院の里の墓地は少し高いですから!」
「じゃ、じゃ、お花買いに行かないと!そんなに色んな種類はないですけど、菊だけは一杯ありますからね!」

 楽しげにはしゃぐ二人。それを見ながら御剣は、しかし少しだけ心が沈んだ。
 綾里弁護士は、素晴らしいものを沢山残していった。真宵の笑顔も、彼女から受け継がれた強さの証だ。

 けれど、彼女の弁護の全てを受け継いだ、あの男は。

 もう、いない。







「・・・・・・・・・・・・なるほど・・・・・・。」
「え?なるほどくんですか?」
「いや・・・・納得・・・・した、だけだ・・・・・・。先ほどの・・・・春美、くんの・・・・発言・・・・に・・・・・・。」
「検事さま、大丈夫ですか?お顔の色がすぐれませんけど・・・・。一旦休憩いたしますか?」
「ふ・・・・・・海外生活で少しは鍛えてきたつもりだったのだが・・・・やはり、寄る年波には勝てんということか・・・・・・。」

 御剣怜侍(三十路一歩手前)は自嘲気味に笑うと、大きく息をついた。一度足を止めて身体を前に曲げ、わずかに震える足を押さえる。息を整えながら、顔を上げて斜面を睨んだ。

 そう、『斜面』を。
 厳密に言えば現在三人が歩いている、あまり舗装もされていない急な山道を。

 先ほど春美は「墓地が高い」と言った。それは地価のことでも敷居のことでもなく、文字通り高い場所にあるという事だったのだ。

「くそ・・・・そろそろ『お兄さん』のランクからは脱落なのか・・・・?」
「まーまー。大丈夫ですよ、なるほどくんもここに来るたんびにゼーゼー言ってましたし。」
「そちらの崖から景色を見たときには、顔がミドリ色になってましたね。専門的には『びりじあん』ですけど。」
「あたしも小さい時は、お姉ちゃんにおんぶしてもらったなぁ。お父さんのお墓参りの時なんかに。」

 しみじみと呟く真宵。その様子には、まるで悲しみなどないかのようだ。彼女の言った者はみな、既にいないというのに。
 思えば、彼女はどれだけのものを背負ってきたのだろう。

 あの忌まわしきDL6号事件で、母が失踪し。
 姉を失い。
 伯母に2度も裏切られ。
 母を目の前で殺され。
 そして。

 そんな彼女をずっと支え、救ってきた成歩堂が、消えた。

 常人であればとても耐えられない。御剣さえ、父が死んだときはいつ心が壊れてもおかしくなかった。
 それでも、真宵は笑っている。
 全ての悲しみを受け止め、目を逸らすことなく、笑っている。

「君は・・・・。」

 ふと気付くと、口が動いていた。歩き出そうとしていた真宵が立ち止まり、振り返る。

「・・・・君は・・・・強いな。我々の中で、成歩堂のことを笑って話せるのは、きっと君たちだけだ。」
「そんな・・・・最初は、ちょっと泣いちゃったじゃないですか。」
「あのようなもの、冥に比べれば泣いてないに等しい。」
「ええええっ!!か、かるま検事が、泣いた?」
「うム。国際電話で呼び出され、行ったら一晩中付き合わされた。
 信じられない、と何度も繰り返していたよ。冥は奴を倒すことを目標にしていたからな。」
「はぁぁ・・・・。」
「私も、それは同じだった。あの男が捏造など・・・・弁護士を辞めた、など、今でも信じられない。糸鋸刑事にしてもそうらしい。だからこそ、私達の中で成歩堂の名はタブーになりつつある。なのに君は・・・・今、笑っている。」

 全てを認め。
 全てを許し。

 それは、どれほど大変なことだろう。

「まるで・・・・そう、聖母のようだ。」
「あはは、みつるぎ検事ったら、23歳つかまえて『聖母』はないですよ。」
「ム・・・・すまない。」
「それに、あたし、そんなんじゃないですから。」
「?」

 そこで彼女は一旦言葉を区切り、にっこりと微笑んだ。前を向いて、数歩坂を上り、振り返らぬまま言う。

「あたし、ホントは認めても、許してもいないんです。なるほどくんのこと。」
「なに・・・・!?」
「あ、別に、恨んでるとかじゃないですよ?なるほどくんだって事情があって、あたしやはみちゃんと会わなくなったんだろうし。ただ・・・・。」

 御剣からは、彼女の表情は見えない。
 だが、きっと微笑んでいるのだろう。静かに、優しく。

「認めてないんですよ。なるほどくんが、捏造の証拠を作った、なんて。
 弁護士を辞めちゃったのは事実みたいですけど、でも、なるほどくんがそんな卑怯なことするなんて、思ってないんです。
 それから、なるほどくんが諦めて逃げたとも思えないんです。現に、今も事務所はちゃんとあるわけだし。
 なるほどくんは今も、諦めないで何かを追っているんじゃないかって・・・・思ってるんです。」

 彼女は言葉を紡ぎ続ける。「認めない」という言葉で、「信じてる」という心を。

「だから、そんな大変な事態だってのにあたしたちに頼らず一人でやろうとしてるなるほどくんが、ちょっと許せなくって。
 なるほどくんは・・・・あたしや、はみちゃんや、みつるぎ検事や、ヤッパリさんや、ゴドーさんを・・・・色んな人を、助けてくれたじゃないですか。そんななるほどくんが逃げたなんて、あたしは認めない。なるほどくんは、諦めたりなんかしない。
 そう・・・・思うんです。」

 そう締めくくって、答えを待たず真宵は少しペースを上げて歩き出した。つられて御剣も足を速め、真宵に追いつこうとする。しかし、横に並んで彼女とまた言葉を交わす勇気は、御剣にはなかった。


 彼女は、こんなにも成歩堂を信じている。
 もうあれから3年も経つのに・・・・それでも、彼を信じる気持ちに揺らぎがない。
 けれど、御剣にはそれができない。真宵の言葉を聞いてもなお、成歩堂のことを心から信じることができずにいる。
 彼が捏造をしたと本気で思っているわけじゃない。けれど、もしも彼が本当に、過去から逃げてしまっていたとしたら・・・・昔の自分のように、全てを捨て、過去を切り離すつもりでいたら、と思ってしまう。

 怖い。

 昔自分がしたように、成歩堂が今までの大切な記憶を手放すつもりでいるとしたら。
 関わってきた全ての人たちに、もう二度と会わないつもりだとしたら・・・・。



「あ!見えてきましたよ!」

 春美の声に、我に返る。気付くと、ようやく坂の終りが近付いていた。
 最後の一歩を踏み込むと共に、視界が開け、光があふれる。

 秋の陽射しの中、墓石が並ぶその様は、わずかに父のことを御剣に思い出させた。

「ここにあるのは、全て綾里一族のお墓なのです。あちらが、千尋さまのお墓ですよ。」
「掃除とかは大丈夫ですからね。昨日来た時にあたしたちがしましたから・・・・・・・・あれ?」

 ふいに、真宵が足を止める。
 無機質な灰色の石の中に、一つだけ華やかな色が見える。盆もとっくに過ぎた今、他に花を活けてある墓はない。恐らくあれが、綾里千尋の墓なのだろう。
 とくに変わったところはない・・・・と思っていたが、そばに寄ってみて気が付いた。真宵が驚いた理由、その正体について。

 遠目では一瞬気付かなかった。どちらも黄色い花だったから。
 飾ってある花のうち、片方は今御剣が持っているのと同じ、菊の花だ。恐らく昨日真宵たちが持ってきたものだろう。きちんと花入れに入れてあり、既に燃えつきた線香に寄り添うように立っている。
 そして、もう一方は・・・・・・。

「・・・・・・・・・・向日葵?」
「あたしたちが昨日来た時には、こんなヒマワリなかったのに・・・・。」

 真宵が困惑したような声を出す。御剣もはっきり言って、困惑していた。
 何故、ひまわり。しっとりと立っている菊とは対称的に、適当な空き缶に挿されて太陽の方向を向いているその花は、明らかにこの場から浮いていた。本来ならば草原や庭や小学生の宿題用の鉢植えなどに咲いているはずのそれは、今グレープジュースの空き缶に入れられて墓の前で揺れている。
 加えて、今は9月だ。既にひまわりの季節は終わっている。

「里の方が持ってこられたのでしょうか・・・・?」
「でも、でも、今寄ってきたお花屋さん、もうヒマワリなんて置いてなかったよ?この辺には他にお花屋さんはないし・・・・。」
「綾里弁護士は、特に向日葵が好きだったのか?」
「さぁ・・・・嫌いじゃないだろうけど、普通くらいだと思ってましたけど・・・・。」

 首を傾げつつ、真宵は墓の前に膝をつき、ひまわりの花びらへ手を伸ばした。触れると、細長い茎に支えられ不安定な黄色がゆっくりと揺れる。

「・・・・誰が、持って来てくれたんだろう?
 お姉ちゃんの先輩の宝月さんは、今外国にいるそうだし、ゴドーさんは・・・・まだ、服役中だし。」

 そもそも、マトモな神経の持ち主ならば墓参りにヒマワリを持ってくることはないだろう。どう見ても墓場のひまわりというのは、真夏の彼岸花、花壇のラフレシア級に似つかわしくない。

 と、そこまで考えて。
 不意に、御剣の脳裏に、ある人物の姿が浮かんだ。

 今はもういない男。
 彼女の弁護を全て受け継いだ男。



 たった二つしか花の名前を知らない、あの男。




「・・・・まさか・・・・・・!」
「みつるぎ検事?どうしたんですか?」

 愕然とする御剣に、振り返った真宵が声を掛ける。
 しばし御剣は目の前のひまわりを見つめていたが、やがて、

「・・・・そうか・・・・そうだったのか・・・・・・・・。」

 肩の力が抜ける。と同時に、奇妙なおかしさがこみ上げてきた。声を殺してクツクツと笑うと、真宵達の顔にますます?マークが浮かぶ。

「いや、失礼。少々、おかしくてな、なんというか・・・・自分の愚かさが。」
「ど、どういうことですか?」
「今まで私は、こんな簡単なことで悩んでいた、という事だよ。」

 笑いながら御剣は言う。
 揺れるひまわりにもう一度目を向けた。太陽のような、希望の光のような花。

「あの男が、全てを忘れるなどという道を選ぶわけがない。」

 何しろ、小学生の頃に別れた自分を追って弁護士になり、自分を毒殺しようとした女を5年も信じ続けた男だ。諦めの悪さには定評がある。全てを断ち切り見なかったことなど、できるわけがない。
 それでも、今までずっと完全には信じることができずにいた。今日、この花を見るまでは。

 成歩堂は、捨て去ってなどいなかった。連絡を絶ち、真宵たちを遠ざけ、御剣たちを拒絶しようとも。
 それでも彼は来たのだ。彼の永遠の師匠である綾里千尋の墓に、彼女の命日である昨日を選んで。


  弁護士バッジのモデルである、ひまわりの花を持って。


「・・・・真宵君、春美君。私は今日、ここに来てよかった。」
「え・・・・。」
「今までずっと迷っていた。だが、ようやく今日決心がついた。私がこれからどうしていくかについて。」

 御剣は、立ち上がった真宵と正面から向かい合い、まっすぐその瞳を見つめた。

 この3年半、御剣はあることについてずっと考えていた。すなわち、成歩堂を追うか否か。
 御剣自身、成歩堂から逃げ出した経験がある。そんな自分に、成歩堂を追いかける資格などないのではないか。ずっとそう思っていた。
 だが、そうではない。『逆』だったのだ。
 成歩堂は、御剣を追ってくれた。ならば、今度は自分が追う番だ。
 あの時彼が、御剣を長い悪夢から解き放ってくれたように、今度は自分が彼を闇から引きずり出す。それが自分のすべきこと。
 そして。

「・・・・・・約束しよう、真宵君。」
「みつるぎ検事・・・・?」
「私は必ず、成歩堂をここへ連れてくる。」
「・・・・・・!」
「これから、もう何年かかかるだろう。しかし、私は必ず成歩堂を見つけ出し、捕らえる。そして、君と成歩堂がまた笑って話せるよう、あらゆる手を尽くして見せる。
 成歩堂が堂々とこの里に来れるよう、君が怖がることなくあの事務所に行けるよう、全てのことに決着をつけてみせる。」

 自分のすべきこと。それは、真宵を救うことでもある。目の前のこの強い女性が失ってしまった支えを、彼女が今も信じ続けている存在を、彼女に渡してやること。
 彼女が強さからではなく、幸福から笑うことができるように。

「だから、待っていて欲しい。必ずやり遂げてみせる。
 君たちのためにも。そして、私自身のためにも。」

 真宵は、しばしの間驚いたように御剣を見つめていた。
 やがて、真宵の顔がくしゃり、と歪む。

「・・・・・・・・・・本当、ですか?」
「・・・・ああ。」
「なるほどくんが、帰って、きてくれるって・・・・・・信じても、いいんですか?」

 震える声で、真宵は言う。
 彼女は御剣に一度も「成歩堂がいつか帰ってくる」とは言わなかった。「信じている」「逃げてなんかいない」とは言ったが、それでも「全てが終わったらきっと、また昔のように戻れる」とは、どうしても言えなかった。
 真宵も、ずっと不安だったのだ。
 御剣は、下を向いて肩を震わせる彼女のその肩に手を置き、そっと頷く。

「ああ、必ず。だから、私を信じてくれ。
 一人で背負おうと思わなくていいんだ。私も君を支えよう。そして、春美君も。
 成歩堂だけじゃない。皆、君を支えたいんだよ。」

 春美が、御剣の言葉に力強く頷く。


 真宵は、やがてゆっくりと顔を上げた。その顔はやはり涙で濡れていたが。

「・・・・・・ありがとうございます!」

 決意と喜びで、輝いていた。















 そして、三人は歩き出す。

 御剣は、自分の真に目指すべきものを知って。
 真宵は、心の拠り所をもう一つ得て。
 春美は、己の決意を新たにして。






 三人のこれから歩む道を見守るように、ひまわりは優しく風に揺れていた。








End




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