054: 見てはいけないものを見てしまえ。





 宵闇と霧をかき分けるように、速足で歩く。
 視界が不明瞭なせいか、目的の場所まで実際以上に距離があるように感じられた。焦りながら、ちらりと腕の中のものに目を向ける。
 薄い毛布にくるまれたものは、ハアハアと赤い顔で息を荒くしている。腕に伝わる、幼子の体温よりも高い熱を感じて、余計に焦りを強めた。

(大丈夫だ、医者にはもう連絡してある。
 ちゃんと診療所は開けてあるはずだ。大丈夫、焦る必要はない。)

 びゅう、と湿った冷たい風が、強く顔に吹き付けてくる。
 子供の顔を毛布でくるみ直し、路地を急ぐ。

 ふと、腕の中の存在がもぞり、と身じろぎした。
 か細い声が「おとうさん‥‥」とつぶやく。頭にかぶせた毛布を弱々しくめくって、赤い顔をのぞかせる。
 足は止めないままで、懐の中の子供に少し目を向け、言った。

「毛布を取るな、風があたる。」
「おとうさん‥‥‥ねぇ、まおうがいる‥‥。」
「‥‥なんだって?」
「魔王が、いるんだ‥‥。」

 一瞬、舌打ちしそうになるのをこらえた。
 熱に浮かされ、幻覚を見ている。もしかしたら、家で測った時より上がっているのかもしれない。
 更に足を速めながら、短く「ただの霧だ。」と答えた。

 周囲に人気はなく、動物の気配さえない。だが、街灯にわずかに照らされ風に揺らめく濃霧は、確かに妙な影に見えるのかもしれない。
 いずれにせよ、気に留める必要はない。それよりも急がなければ。

 だが、子供は息を荒げたまま、苦しげな声でさらに繰り返した。

「魔王が‥‥なにか、言ってる‥‥。」
「風の音だ。黙っていろ、熱が上がる。」
「呼んでるんだ‥‥おいでって‥‥‥きれいな声で、ぼくの名前を呼んでる‥‥‥。」


 言葉を止めさせるのも兼ねて、ぐいと子供を抱き直した。
 霧はますます深くなっているように感じる。頭の中で診療所までの道順と距離を再度浮かべる。そろそろついても良いはずなのだが、霧のせいで曲がる角を間違えたのだろうか。
 苛立つ頭に、また子供の声が響いた。


「おとうさん‥‥‥ほら、聞こえないの‥‥‥?魔王が、おいでって‥‥‥。」
「枯葉の音だッ!黙っていろと言ったのが聞こえなかったのかッ!?」
「おいでって‥‥かわいいぼうやって、言ってる‥‥‥なんて、優しい声‥‥。
 ‥‥見えないの‥‥魔王のこどももいる‥‥。ほら、そこに三人‥‥‥並んで、ぼくのことを待ってる‥‥‥!」
「あれはただの街路樹だッ!!いい加減にしろッ!!
 ゲーテでも気取ってるつもりか!?それ以上おかしなことを口走るならここに捨ててくぞ!それともまた殴られてーのかッ!!!」


 思わず声を荒げ‥‥ハッと我に返り、慌てて周囲を見回す。
 だが、依然周囲に人影はない。そもそもこんな時間に誰も路地を歩いているわけがない。聞かれなかったか、と、思わず安堵し息をついた。

 同時に、苛立ちが戻ってきた。
 どうして自分がこんな目に、という思いが強くなる。憎しみをこめて、腕の中の黒髪の子供をにらみつけた。
 子供は未だうつろな眼差しで「‥‥お義父さん‥‥魔王が‥‥」と繰り返している。

(クソッ‥‥どこまでも忌々しいガキだ。連れ子の分際で、人に手間をかけさせやがって。)

 妻の連れ子が、夜中に高熱を出した。水を飲ませても寝かしつけても、一向に下がる気配がない。
 夜が明けてから医者に連れていけばいい、と妻に言ったのだが、「熱が高すぎる」「朝になるまでに死ぬかもしれない」と言ってきかなかった。
 仕方なく車を出したが、この季節外れの霧のせいかエンジンがおかしくなり、進まなくなった。やむなく、一旦車を置いて歩く羽目になったのだ。

(なにもかも、こいつのせいだ。)

 正直、車に置いて行ってしまいたかった。自分に懐きもせず、おどおどと顔色を窺うばかりの可愛げのない子供など。
 だが、自分のせいで死なれたとあっては目覚めが悪いし、妻や近所の者にも責められるかもしれない。

(人の気も知らないで、不気味なことばかり言いやがって‥‥『魔王』なんか、どこで覚えたんだ。何もできない、びくついてるだけの、陰気なガキのくせに。人をからかうのも大概にしろ。
 やはり子持ちの女なんかやめとけばよかった。ちょっといい女だったからって、早まったことをしたか‥‥やはりジャッポーネの女なんか‥‥。)




 唐突に、気が付いた。
 そうだ。ジャッポーネ。外国人なのだ。妻も、この子供も、つい最近この国へ来たばかりの。
 イタリア語だって少ししかわからないのに、ドイツ語の歌など、聞いたところで理解できるはずがない。
 知っているはずがないのだ。

 ならば‥‥先程からの言葉は?




 ぞわり、と背筋が冷たくなる。
 冷たい風がまた、身体をなぐように吹き荒れた。
 こんなに風が強いのに、何故一向に霧が晴れないのか。

 考えるのが恐ろしくなり、思考を散らすように無理やり足を動かして、再び走り始めようとした。



「お義父さん‥‥‥。
 ああ‥‥‥『おとうさん』‥‥!」


 突然、腕の中の子供の声のトーンが上がった。今までと明らかに違う、うっとりとした声で。
 未だに息は荒いが、その瞳は熱のためではなく、興奮のために潤んでいるようにも見えた。
 熱に浮かされるままに、毛布の隙間から手を出し、その目で見ている『何か』へ向けて、手を伸ばす。


「『おとうさん』‥‥なんだね‥‥!ほんとの、僕の‥‥!
 ‥‥迎えに、来てくれたんだ‥‥‥!
 ‥‥‥ああ‥‥『おとうさん』‥‥おとうさん‥‥!」


 熱を帯びた言葉とともに、ふらふらと虚空に伸ばされた、小さな手。







 その手を、霧の中から現れた白い腕が、掴んだ。







「うわあああああッ!!!!」


 悲鳴を上げ、腕を振り回す。
 腕の中の存在がひどく恐ろしくなって、反射的に自分から遠ざけようと、思わず毛布の塊を道路へ放り出してしまった。

 しまった、と思う間に、ぱさり、と投げ出した毛布が地面に落ちる。
 その音のあまりの軽さに、さらに恐ろしい何かを予感する。

 見たくなかった。このまま逃げ出してしまいたかった。だが、そんなわけにもいかない。
 恐怖でへたり込んでしまいそうな気持ちを必死に抑え、震える手で地に落ちた毛布の端をつかみ、引いた。

 だが。





 毛布の中にいたはずの子供は、煙のように姿を消していた。



















 「おいで。おいで。
  ああ、いい子だ。

  わたしの、かわいい 坊や。」












Fin






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 某つぶやきサイトでお見かけした「シューベルトの『魔王』を無駄親子で」という呟きが心に残り、延々妄想した結果の産物。
 一応ハッピーエンド?


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