017: 悪夢にうなされるべし。
暗闇の中で、僕は泣いている。
声をあげて、顔をゆがめて、腕を振り回して泣き叫ぶ。
何も見えないこの闇に恐怖して、音のないこの空間に怯えて、幼い僕は必死になって泣き続ける。
だれか、助けて。
早く僕の声に気づいて、この暗闇から救い出して。
それが駄目なら、せめて僕と一緒にいて。
誰でもいいから、はやく、はやく来て、僕の手を握って。
お母さん、どこに行ったの。どうして来てくれないの。
僕は泣き続ける。疲れ果て、腕を振ることが出来なくなっても、なおも意地になったように泣きじゃくる。
まだ言葉もよく知らない僕には、それしか助けを求める方法がないから。
けれどやがて、僕は完全に理解する。
この闇の中には、自分しかいない。助けてくれる人などどこにもいない。
母親はまた、僕を放って出掛けてしまったのだ。
僕はここに、この恐ろしい暗闇の中にたった一人ぼっちでいるのだ、と。
そして僕は、泣くのを止める。
恐怖が消えたわけではない。むしろ一人だという孤独感から、恐怖は更に増している。
それでも、僕にはもう泣く意味がない。
泣くという事はもう僕にとって、無駄なことになってしまった。
小さな僕はもう何もせずに、ただ静寂と闇の中に座っている。
泣いたところで、誰も助けてはくれない。
呼んだところで、誰も応えてはくれない。
そんなことは、赤ん坊の頃からよく知っていた。
それならば、それらは全て無駄な行為だ。
意味のない、理由のない、ただ余分なだけの行動。なら、しないほうがずっといいに決まっている。
悲しむことも、絶望することも、僕にとっては無駄なことだった。無駄は良くない。無駄は嫌いだ。だから僕は、それらを全て切り捨てることにした。
義父のことも、同級生達のこともそうだ。怒りも抵抗も無駄であるし、そもそも彼らの存在自体が無駄なこと、僕にとって必要のないものでしかない。
だから、全ての感情を「無駄だ」と思って、感じることを止めてしまえば、もう僕は傷付くことはない。身体に出来た無数のアザも、日々の冷たい視線や暴力も、そして“彼女”からの無関心さも、全部僕には関係ない、無駄なことなんだ。
そう思わなければ、心が折れてしまうと思っていた。
・・・・・・・昔の夢だ。
音も光もない世界に座ったまま、僕はぼんやりと考える。夢の中の僕はもう身じろぎ一つせずに虚空を見つめている。もちろん見ている先には何もない。ただ、闇が広がっているだけだ。
今の僕は、そうではない。今の、現実の僕はもう、光を見つめて歩いている。希望を知り、夢を持ち、仲間を得た。
僕はもう、幼い子供ではない。
今でも時々、こんな夢を見る。昔の夢。何もない夢。全てを諦めてしまう夢。
けれど、僕はもういちいち闇に怯えることはない。今でも無駄は嫌いだが、感情全部を切り捨ててしまおうなんて思わないし、世界に絶望もしてはいない。
あの日、仁義と誇りを持ったあの彼に出会って、僕は変わった。
世界には彼のように、相手が幼い子供であっても優しさを持って接することの出来る人がいるのだと知った。
一人の人間の力で、誰かの悲しみに満ちた人生を変えることが出来ると知った。
感情とは恐怖や絶望だけじゃなく、喜びや希望だって様々な場所に溢れていると知った。
僕はもう、全てが無駄だと拒絶したりなんかしない。
例え暗闇の中にいようとも、僕は座り込んだりしない。立ち上がって、自分で自分を支え続けることが出来る。
光を探して、そこに向かって歩いていくことが出来る。
たとえ、ひとりきりだということに変わりがなくても。
僕はゆっくりとかぶりを振り、僅かによぎった思いを追い払う。
もうそろそろ、起きなくてはいけないだろう。
僕は暗闇の中で目を閉じた。当然だが、見える景色は変わらない。どうせ暗闇しか見えないのに、目を開けていたのは少し無駄なことだったかな、とちらりと思う。
いい加減、この夢から目覚めよう。
目を開けて、ベッドから身を起こして、そしてそこが僕の部屋であること、僕が赤ん坊なんかじゃなく、15歳の少年であることを確認しよう。
それから、「嫌な夢を見たな」って小さい声で呟いて、立ち上がって顔を洗いに行くんだ。
少しずつ、僕の意識が浮上してゆく。と同時に、目の前の闇が二つに裂け始め、僕はほんの少し安心する。
その向こうに光がある訳ではないけれど。
寝る前にカーテンを閉めたから、部屋の中が暗くても驚かないようにしないと。
そんなことを考えながら、僕は夢から脱出する。
ああ。
なのに。
「ハルノ。」
ちゃんと、覚悟したというのに。
「ハルノ。」
暗くても、部屋に一人きりでも怯えたりしないようにと、ちゃんと思っていたのに、この人は。
「大丈夫か?うなされていたようだが。」
声が振ってくる。薄く開けた目に、僕よりも鮮やかな金色が飛び込んでくる。
ああもう、どうして、今日に限って。
「嫌な夢でも見たのか?」
冷たい感触が、静かに僕の頬を撫でていく。
人よりもずっと冷たい血しか流れていない手のはずなのに、なのに、どうしてこんなに。
目が覚めても、一人じゃないだなんて。
「・・・・・・ハルノ?どうした?」
「・・・・・・んでもっ・・・・ない、ですっ・・・・!」
途切れ途切れに、僕は言う。
部屋の中は暗い。カーテンはやはりしっかり閉まっていたらしい。僕は少し、暗闇に感謝した。
光の下では、彼は生きられない。そして部屋が暗ければ、こんなみっともない姿を見られなくてすむ。
けれど、吸血鬼は目が良い。
静寂の後、ふっと彼が微笑む気配がした。
お前の泣いた顔を初めて見たな、という優しい声が、僕の胸にゆっくり沁みこんでいった。
fin
BACK