決戦前夜その2 〜愛だけじゃない〜





 甘ったるい香りが部屋中に満ちる。

 本から顔を上げ、私はほんの少し鍋を覗き込み、とろりと溶けた茶色を確認した。
 完璧です。


 
 明日はばれんたいんでい。恋人たちの為の行事。ちょこと一緒に愛を贈る、陛下のお国での素敵な習慣・・・・。
 と、此処まで読んだ方は、私に恋人もしくは想い人がいると思うことでしょう。残念ながら違います。確かにばれんたいんは恋人の為の行事ですが、私は別に恋人などおりません。
 猊下のお話によれば、ばれんたいんには素敵な抜け道があるのです。


 義理。


 ああ、なんと素晴らしい言葉なんでしょう!

 ちょこを渡す際に『義理』とはっきり言えば、別にあなたに恋心があるわけではなくあくまで日ごろの感謝を込めているんですよーということが即座に相手に伝わるという、便利な法則があるのです!
 中には本命(恋人同士様の言葉)にもかかわらず照れ隠しで義理と称する方もいるそうですが、この際それは置いておきましょう。とにかく、この『義理』という抜け道を使えば、明日のばれんたいんに周囲に誤解されることなく兵士や陛下たちに私の作ったちょこを渡すことが出来るのです。
 さりげなく、しかも確実に・・・・・。


 明日の事を想像し、少々笑みがこぼれてゆく。
 私は椅子から立ち上がり、ちょこが完全に溶けたことを確認。
 そして、棚においておいた瓶の中身を一滴、二滴、三滴・・・・・。

 何故三滴なのかというと、それ以下では効果がないことが多く、それ以上だと失敗した時に誤魔化すことが困難だからです。
 もちろん私の理論上では失敗する事などありえませんが。

 この私の開発した新薬は、最近眞魔国に訪れたブブブンゼミの体液から作られており、少量使えば疲労回復、元気ハツラツ、一発逆転、百戦錬磨、一撃必殺は間違いなし!というスグレモノなのです。
 ・・・・・ちなみに多量使用した場合、ほんの少し使用した者の姿がセミっぽくなる、という副作用がありますが、些細な問題です。それに、少量であればセミの姿にならないということが立証済みです。三滴であれば、まず大丈夫でしょう。


 さて、明日のばれんたいんではいよいよ実用性における実け・・・・・・いえ、試験です。
 すなわち、大量の者にこの新薬を服用していただき、どれほどの効果が得られるか、また個人差がどれほどかを調査するのです。既に3日前に『冬の健康診断』をしたため皆の健康状態は把握済み。後は『春の健康診断』(ちょっと早いですが)を行い、前回との差を見るのみ!


 鍋の中で緑色の液体は完全に溶け込み、やがて茶色しか見えなくなった。
 私の笑みはますます深くなる。

 明日の実け・・・・じゃなくて試験が成功すれば、いよいよこの新薬を眞魔国内で売り出します。いずれは同盟国、更には世界中どこでもこの薬が手に入るようになれば、現在病に苦しむ人々を何万人も救う事が出来るでしょう!もちろん私は別に利益を出そうとは考えていないので定価は安くしますし、そうなれば貧しい人々も病気を治すことが可能になるのです!

 ああ素晴らしい!全ては眞魔国の栄誉と発展のために!








 と、扉をたたく音が聞こえた。返事をする前に扉が開かれる。


「ギーゼラ!ギーゼラはいるか!今すぐちょこの作り方を教えてくれっ!」
「あら閣下、どうなされたんですか?確か閣下は既に御自分で作られていたはずでは?」
「そうなんだが・・・・その、猊下にどうやら騙されたようで・・・・。くそう。やはり僕だけだったのか・・・・。」

 閣下は言いながら一枚の紙を取り出した。
 私はその紙を覗き込み、つい噴き出した。そこには猊下の文字で、ちょこの作り方と称されたものが書いてある。

「全く、猊下も意地の悪いお方ですね。」
「ギーゼラにはまともな作り方を教えたようだな。うん、これがチョコの香りか・・・・。
 はっ!もしやユーリに渡すつもりか!?」
「大丈夫ですよ。義理ですから。たくさん作って閣下や城の者に配ろうと思っていたんです。」
「へえ・・・さすがギーゼラだな。それで、その・・・・・。」

 うつむいてどもる閣下を見て、私はニッコリと微笑んだ。

「構いませんよ。ただこの部屋では狭いでしょうし、私のちょこも作っています。何より機材や薬もあって危ないですから、厨房へ参りましょうか。」

 そう言って差し上げると、閣下は嬉しそうに笑ってみせた。



 そして私は席を立ち、ちょこをあたためていた火をいったん止めた。
 猊下に頂いた調理方法の説明書をもって、閣下を部屋から出す。

 部屋から出る瞬間、一瞬だけ私は振り返り、物置を見た。
 何の変哲もない、他と全く変わらないような普通の物置。
 人一人でも入れてしまいそうな、大きな物置。







 今は、セミの姿をしたダカスコスが眠ったまま中に入っているはずの、大きな物置。








 けれど私は構わずに、部屋の扉を閉めた。














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